明治民族主義與靖國神社
Monday, May 28, 2007
歷史怨懟與認同凝聚的關係相當弔詭,如同祖法堂訓一樣,後代經由宗族門閥分享地域認同與記憶。馬志尼獻身義大利民族主義運動時,能夠流利使用義大利語的各邦人不到總人口的 10%,民族主義的初期階段透過族裔血緣的原生記憶進行政治動員,自屬合理選擇。時隔百年,本體已變,回顧百年舊帳的意義必須另外省度。
上個月的日本參院補選中,安倍晉三抵会津,對先人所為感到抱歉,並以個人姓氏源由以召喚選民支持。這種前現代語言在後現代式的政治空間中呈現的國民形像,必須在歷史脈絡中查典故。在目前靖國神社內奉祠亡靈中,來源如下:
* 戊辰戦争・明治維新 : 7751柱其中,最為慘烈的会津戰爭,薩長軍姦淫擄掠惡狀造成会津藩民與舊政府側對維新政府的怨恨與屈辱,因此,在西南戰爭中,眾多会津藩人投入政府軍討伐薩摩藩報仇,雙方怨恨難解。一直到一九八六年,長州藩的萩市才與會津若松市結為友好城市,福島縣也成為全國最後設置龍馬會的縣,而時已過一百二十年。
o 新政府軍側のみ、遊就館の靖国の神々の一覧表では「明治維新」のみ。
* 西南戦争 : 6971柱
o 政府軍側のみ。
* 台湾出兵 : 1130柱
o 遊就館の靖国の神々の一覧表では、「台湾討伐」とある。
* 壬午事変 : 14柱
* 江華島事件 2柱
* 京城事変 6柱
(遊就館の「靖国の神々の一覧表」では、壬午事変、江華島事件、京城事変はなぜか一覧表にない)
* 日清戦争 : 1万3619柱
* 義和団事件 : 1256柱(遊就館の「靖国の神々」の一覧表では、「北清事変」とある)
* 日露戦争 : 8万8429柱
* 第一次世界大戦 : 4850柱
* 済南事件 : 185柱
* 中村大尉事件外19柱
* 満州事変 : 1万7176柱
* 日中戦争 : 19万1250柱(遊就館の「靖国の神々」の一覧表では、「支那事変」とある)
* 太平洋戦争 : 213万3915柱(神社側は「大東亜戦争」と呼称する)
* 計 : 246万6532柱
戊辰戰爭是日本國民國家進行民族統合過程中的內戰,尚需一百四十年來化解,而國與國之間的征戰亡靈又如何制約後世思維?惟由善解此一脈絡,方可對右派政治人物利用原生地域主義進行有效批判。「可以原諒、不能忘記」永遠比「以牙還牙、以眼還眼」合乎人性,觀乎戊辰戰爭可知一二,僅以口頭之惠企圖化解仇恨凝聚共識恐有不足之處。*
日本政治學者雪斎的 BLOG 中拿了新幹線的開通時間來比擬,在日本「近代國家」出現的過程中,落敗者在施政體系裡處於「白河以北一山百文」的位置,反映了政經勢力的影響。
雪斎也比較了「明治ナショナリスト」、「平成ナショナリスト」,主張陸羯南等一班明治民族主義者企圖結合民族主義與自由主義,以區別當今日本國家主義者的誤用。陸羯男於百年之前就提出了國民主義,過了百年仍是洞見。:新幹線鉄道網が本州の「西端」に到達するのと「北端」に到達するのには、実に三十五年の「時差」がある。この「時差」の意味を、どのように考えるのか。日本の近代の歳月の中では、「白河以北」は徹底して冷遇されてきたという感情があるけれども、そうした感情は、こうしたインフラ整備における「時差」を前にしても刺激される。
- 山陽新幹線下関開業 1975年3月
- 東北新幹線八戸開業 2002年12月
- 青森開業 2010年予定
「日本国民の隆昌を謀る」。この一事を外しさえしなければ、どのような思考を組み立てても、何ら恥じることはない。陸は、そうした柔軟な言論の意義を伝えている。それ故にこそ、陸が主宰した新聞「日本』には、三宅雪嶺、志賀重昂、正岡子規、長谷川如是閑、古島一雄といった人材が集ったのである。陸は、「ナショナリズム」と「リベラリズム」の融合を目指したと評されているけれども、雪斎も、陸の想いには大いに心惹かれる。実際、「『昭和のナショナリスト』は愚昧だったが、『明治』は…」という意味合いで陸を評価したのは、丸山真男だったのである。
[略]
故に、陸の論調は「国民主義」と呼ばれ、陸自身は現在では「明治ナショナリストの典型」として位置付けられている。しかし、陸の「国民主義」それ自体は、ナショナリズムとリベラリズムの融合を目指すものであった。実際、陸が主宰した新聞「日本』には、三宅雪嶺、志賀重昂、長谷川如是閑、古島一雄といった人材が集ったけれども、陸の「国民主義」におけるナショナリズムの側面を継いだのが三宅や志賀であり、そのリベラリズムの側面を継いだのが長谷川あったということになる。
附帶閱讀:
1. 政治学者と法律学者の作法:
ところで、そもそも、政治家と法律家は、その認識や思考の枠組を異にしている。政治家は、「法律上、正しいかどうか」を議論の基準とする法律家とは対照的に、「それが必要かどうか」を議論に際して優先する。そして、アカデミズムの世界においても、政治学者は、諸々の政策決定に際して、「それが法律の趣旨に則っているか」という視点から判断を下す法学者とは異なり、「それが国益の追求の観点から賢明であるかどうか」を評価の基準とする。ジョージ・F・ケナンが、特に国際政治案件に際して「法律家的な発想」を嫌ったのは、そうした発想が変転する国際政治情勢に対応する際の柔軟性を削ぎ落とすからである。その意味では、たとえば現行憲法典第九条に絡む「護憲」論と「改憲」論の対立の本質は、「法律家的な発想」と「政治家的な発想」の対立であったといえなくもない。
2. 政治家の「意志」と憲法学者の「権威」
ところで、日本の憲法学者の大勢は、実際に憲法典改訂が成った暁には、どのように身を処すつもりなのであろうか。雪斎は、そのような動きに対して、抗議辞職などを通じて身を挺して抵抗する「豪傑」がいるようには、思われない。おそらくは、彼らには、三つの行く末が考えられる。第一に、「平成憲法典」を解釈するという仕事に精励することである。第二に、実質上、過去の文書となった「昭和憲法典」の訓古学に走ることである。第三に、「昭和憲法典」の復活に向けた改憲運動に身を投ずることである。この中では、どれが可能性が高いのかといえば。第一の方向であろう。第二の方向には、土井たか子女史のような人々は走るかもしれないけれども、まともな憲法学者が自ら「化石」に成ろうとするとは思われない。第三の方向にしても、改憲という政治運動に走る学者を「二流」と呼んではばからないような日本の憲法学者が、自ら政治運動に走るとは考えにくい。結局、彼らは、「平成憲法典」護憲派として、何事もなかったように振る舞うのであろう。
*一八六八年八月的奧州會津之戰是戊辰戰爭中最關鍵的一場戰役。政府軍3000人迂迴突襲會津藩的若松城。戰鬥歷經1個多月,9月22日會津藩開城投降。會津藩戰死3000人,包括數百名未成年的少年白虎隊成員。此外,還有許多人集體自殺。而政府軍不允許安葬失敗者屍體,只得任其腐爛。直到12月才允許埋葬,但是仍然不允許樹碑題詞。而會津藩也被遷移到斗南藩(今青森縣)。會津人則被稱為「會賊」,居住地則被稱為「白河以北一山百文」(意即無人居住的荒涼之地)。也正是因此,直到現在長州藩和會津藩仍然不能和解。這是為什麼安倍晉三一邊道歉,一邊強調安倍族與青森關係之緣故。
ps. 附帶一提,這位老兄聽的片子都不錯。
延伸閱讀:
Akiko Takenaka: Enshrinement Politics: War Dead and War Criminals at Yasukuni Shrine






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